鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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で、彼女が相続した『大アトラス』を閲覧した(注26)。「3月9日午前、我々は美しく、彩色されたブラウのアトラスを見にファン・デル・ヘム女史を訪ねた」という文にはじまる日記には(注27)、この『大アトラス』がいかに見事なものであったかが、7頁にわたって子細に綴られている。その中でウッフェンバッハは、「刷られた地図はすべて、今は亡き最も名高い彩色のマイスター、ディルク・ヤンセン・ファン・サンテンによって優美に彩色された」として(注28)、ファン・サンテンが名実ともに優れた彩色師であったことを伝えている。おわりに以上、単色の版画に対する彩色の目的について検討した。版画彩色には彩色師の力量が大いに反映し、裕福な注文主は、一部の優れた版画彩色師に高価な顔料をもちいて彩色させることもあった。マグダレーナ・フュルストが彩色した版画は、ニコラース・デ・ブラインが図案化し版刻したというインスクリプションを覆うほど画面全体が彩色された上、板に貼られており、一見すると板絵のように見える。このことは、この版画が絵画を代用するために彩色されたことを想起させうる。しかし、彩色地図の例を考えれば、版画に対する彩色が必ずしも絵画を模倣するものではないことは明らかである。16世紀以降の銅版画による地図は、科学的な測量に基づいて描かれたもので、彩色によって視認性が高められていた方がより実用的だった。また、実用性を保ちつつ、地形を示す線に過度に干渉しない程度に、装飾として様々なイメージが挿入された。さらに「アトラス」には、元来地図とは関係のない独立した版画も収められ、ファン・デル・ヘムの例のように、版画彩色師を雇ってそれらの版画を含む「アトラス」全体を彩色させることもあった。これらの彩色は、絵画の代用というよりもむしろ、色彩によって地図ないしは版画の質を高めたいという欲求によるものだと考えられる。ファン・デル・ヘムが所有した『大アトラス』は、製本の形状を留めたまま現存している数少ない例であり、製本されていた「アトラス」のほとんどはある時点で解体され、やがて散逸した。「アトラス」収載の彩色版画が、製本を解かれ、壁に掛けられたとしても、それは必ずしも絵画の代替品ではなかっただろう。そもそも色彩の有無を問わず、版画を壁に掛けるという行為は、絵画と同様の仕方ではあるが、絵画の代用であるとは言い切れない。自立した美術作品としての版画そのものに価値を置くこともあった可能性を排除することはできない。― 78 ―― 78 ―

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