り早い時期から国史絵画館の計画があったことがうかがえる。養正館建設計画の中心人物とされる香坂昌康は、福島、愛媛、岡山、愛知の県知事を歴任し、昭和7年(1932)に東京府知事に就任。同年には国維会に参加していた。国維会は、昭和6年(1931)に金鶏学院学監・安岡正篤の後援者を中心に組織された、日本精神による国政革新を目指した新官僚集団である。国政革新実現のための人材糾合を図り、研究と啓蒙を中心にした読書会、修養会、講演会、政策研究会などの活動を主に行っていた(注5)。国維会は昭和9年に解散しているが、香坂は同会で理事に就任しており、組織内である程度有力な人物であったと考えられる。さらに、養正館施設調査委員のうち、安岡正篤は国維会の中心人物であり、三上参次は地方組織の顧問、佐々木秀一は香坂が国維会活動の一環として所長を務めていた日本文化研究所が発刊した小国民のための日本精神涵養、教養に資するための児童読物「小国民文庫」の選者のひとりであった(注6)。委員に国維会関連のメンバーが含まれている点から、同会の意向を含みつつ国史絵画館の計画が進められていた可能性も考えられ、皇太子誕生は彼らにとって東京府主導で精神修養道場を建設する絶好の機会であったように思われる。また、国史絵画館以前にも、大正5年(1916)の裕仁親王(昭和天皇)立太子の奉祝記念として、国史を題材とした『奉献画帖』が献上された前例があり、そのため今回の皇太子誕生を奉祝した養正館建設も受け入れられやすかったのではないだろうか(注7)。昭和9年3月20日の第1回調査委員会では、早速国史絵画館についての協議が行われ、調査委員の平泉澄と藤岡継平が画題の原案を作成することに決まった。同年6月14日の第2回調査委員会で藤岡らの作成した原案が審議され、翌月5日第3回調査委員会で75の画題が決定した(注8)。その後、翌年の昭和10年(1935)から揮毫者の選定、作品の制作が始まり、昭和12年(1937)12月に養正館は開館したが、78点全てが揃ったのは昭和17年(1942)であった。制作者不在の画題選定を含め、以降の少人数による参考図の作成、日本画・洋画の各揮毫者の選定、下絵の批評会、制作という過程は、先述のとおり聖徳記念絵画館を先例にしていると考えられている(注9)。画家が何を描きたいかということよりも、何を描かせるかということに重点が置かれており、澤田氏の述べるように、画題が最優先事項であり、史実の順守を重視したのである(注10)。そして、聖徳記念絵画館で描かれた史実が明治天皇、昭憲皇太后の事績であったのに対し、国史絵画館では当時の国史教育に則った内容かどうかが重視されていたと考えられる。― 85 ―― 85 ―
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