当時の国史(日本歴史)の教則には「国史は国体の大要を知らしめ兼て国民たるの志操を養ふを以て要旨とす」と定められている(注11)。また、養正館については昭和12年5月に告示された「東京府養正館設置規程」の第2条に次のように示されている。 東京府養正館ハ青少年及之カ教育指導ノ任ニ在ル者二対シ国体観念ヲ明徴ニシ国民精神ヲ作興セシムルコトヲ目的トルス修養道場トス(注12)加えて、香坂の養正館開館時の挨拶を見ると、国史絵画館への「国体教育」を行う施設としての期待が述べられている。 国史絵画館の期する処は、決して一種の美術館ではないということは申すまでもありません。又児童をして単に智識的に個々の歴史事実を知らしむるを目的としたものでもありません。要はこれに依りて我が尊厳なる国体の精華、我が国民精神の真髄を感得せしめんとするものであります。…〔中略〕…児童の時分から高尚なる趣味的作品たる歴史画を通じて、知らず識らずの間に我が国の大精神を養って行くことは洵に大切であると思ふ次第であります。国史絵画館の期する処の第一はこの点に在るのであります。(注13)このように、国史の教則と養正館及び国史絵画館には共通した役割が求められていたことがわかる。一方、澤田氏は、養正館や国史絵画館の趣旨について、養正館で行われた講習会の「青少年教化錬成」と「少年指導者教化錬成」(錬成講習会)や、文部省から刊行され、敗戦まで教育全般の指針となった『国体の本義』などに着目し、当時の時代背景として青少年への国体観念、皇国史観の教育が非常に重要視されていたことが関係していると考察している(注14)。講習会が使用目的のひとつとして施設の趣旨と合致していることからも、こうした時代背景が養正館の設立趣旨に影響を与えたと考えられるが、澤田氏が着目した文部省発行の『国体の本義』は養正館が開館した昭和12年、「錬成」の理念を実践化した国民学校令は昭和16年(1941)の出来事であり、時期的に見て国史絵画はこれらの影響を直接的には受けていないように思われる。とはいえ、昭和6年の満州事変以降、日本は軍国主義化が進み、教科書の内容も皇国史観が強調されるようになっていった時期であることは確かである。それに伴い、― 86 ―― 86 ―
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