11月20日に造り始め、2ヶ月強で造り終わったこ 33番「弥勒菩□立像」は、像内納入経巻の奥書に 定朝は寄木造りと割矧ぎ造りという日本独自の造像技法の完成にも大きな役割を果たした。頭部を含めた仏像の中枢部に対する畏敬の念と日本古来の木そのものに霊性が宿るという観念から、頭部と体部の中心部を通して一材から彫り出す一木造りが長く続いていたが、10世紀後半から頭部・体部を通して正中線で左右二材を矧ぎ寄せる寄木造りが行われ始めた。これを基本にしたもっとも合理的な材の寄せ方(これにより大像の分業による迅速な製作が可能となる)、同時に材を大きく内刳りして干割れの防止や像の軽量化に寄与する寄木造り内刳りの技法の完成が鳳凰堂阿弥陀如来坐像に見られる。また等身大以下の大きさの像なら、一本の材で彫り出してから縦に割り、内部を刳ってまた矧ぎ合わせる割矧ぎ造りの完成した技法が、鳳凰堂の雲中供養菩□像に見られる。そしてこれらの技法には木目がきれいに通った檜材が最適であり、ここに挙げた像の多くも檜材を用いた寄木造り乃至割矧ぎ造りになっている。 これらの中に造像銘記によって造立年代を知られる大日如来像が2体ある。12番は長治2年(1105)の年記と70名以上の結縁者名を記し、13番は願主の僧が極楽往生のため8尺の大日如来像を久安4年(1149)と、約50名の結縁者と造立した仏師の名を記している。このような造像銘記は平安時代後期でいま100体以上に知られているが、それらは上級貴族による一堂の本尊といった本格的な造像でなく、それより下の階層が願主となったもので、そこに名が記されることのある仏師も京都の一流の仏師とは異なっている。しかしその造像の趣旨や造像の経過、信仰的背景を知る上でもっとも直接的な史料として貴重であり、この2体についても同様である。 鎌倉時代(1185〜1333)は、前代末の戦乱の時期を経て、仏の救いへの希求がより強くなり、仏像に力強さや実在感が求められた。この時代の初め、その実現にもっとも力があったのが奈良仏師の出である運慶と快慶で、他にも個性的な仏師が輩出した。ただし京都ではなお保守的な作風も生き残っている。より文治5年(1189)快慶自身の発願により造られたことが知られる。現存する快慶作品中もっとも早い東大寺大仏師康俊とは別人)。時期のもので、快慶の完成様式に至る道程を示す貴重な一作である。なお奈良興福寺に本像が写った古写真(明治39年撮影)があり、もと興福寺にあったことが確かである。これに対して35番「菩□立像」は運慶様式の正統を伝えるもので、できもすぐれている。 次に銘記によって製作年代や作者の知られるものを挙げる。38番「聖観音菩□坐像」は文永6年(1269)仏師西智の作で、滋賀県金剛輪寺に安置された。光背・台座と共に完全な姿で残り、入念の作で、この期金銅仏の代表的作品である。なお36番の仏頭も平安時代後期の作風を残すこの期の優品である。44番「地蔵菩□像」は元亨2年(1322)運慶派系統と思われる仏師円慶によって造られ、いま福岡市明法寺がその後をつぐという定禅寺の像であった。これも光背・台座まで伴った完好な姿で遺存する。45番「僧形八幡神坐像」は嘉暦3年(1328)「南都興福寺大仏師康俊」の作で、康俊は文保2年(1318)の大分金剛宝戒寺大日如来像ほか多くの遺作があり、善円一派の系統を引く鎌倉時代末の仏師である(南北朝時代の 彩色・切金等がよく残り、当初の華麗な姿を伝える像も多い。39・41・43・46・47・48・52・53番などで、中で39番「阿弥陀如来立像」は肉身・着衣共金泥塗り。金泥塗りはこの時代初めにおそらく快慶が宋時代の手法を取り入れて始めたもの、漆箔とは違って金の細かい粒子が光を乱反射するので、その淡い光が仏を親しみやすく感じさせ、またその金色の着衣を切金文様で飾ることもできる。 最後に52番「薬師如来坐像」について。この像は檜材の一木造りの小像で、蘇芳色(赤紫色)に染めて赤栴檀の色とし、衣部に切金文様をおく。このように檀像あるいは代用檀像(他の材を用いた檀像風の彫刻)に素地のままか檀木に見せる彩色や染色を施し、切金文様をおく例は、平安時代11世紀以降の作品に見られる。長治元年(1104)仁和寺旧北院本尊薬師如来坐像や久寿元年(1154)峯定寺千手観音坐像などがその代表例である。鎌倉時代の作品では奈良国立博物館と東京国立博物館の2体の如意輪観音坐像が蘇芳色に染めた地に切金を施すが、さらに法隆寺如意輪観音坐像の仕上げが注目される。唐からの請来品で43
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