ボストン美術館 日本美術総合調査図録 図版篇
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90年に帰国するまでの間に、袈裟を含む日本染織る19領の能装束を山中商会から購入している。大名幅200㎝以上がほとんどであるのに対し、五条袈裟幅30㎝前後、長さ16㎝前後である。品のどれほどを収集したのかはわからないが、ビゲローは帰国してからも、山中商会のニューヨーク支店とボストン支店を通じて、ボストン美術館のために日本染織品の購入を続け、1915年には、仙台・伊達家や福岡・黒田家、京都・本願寺旧蔵と伝えられが演能に使用していた能装束同様、僧侶が儀式や日常に着用していた袈裟が、大量に海外流出した経緯は同じであったと考えられる。 ビゲロー・コレクションの袈裟がボストン美術館に寄贈されたのは1911年と1921年の2回で、これは能装束が寄贈されたのと同年であり、また収蔵品番号も袈裟と能装束は近いところにある。このことから能装束と袈裟はほぼ同じ経緯でビゲロー・コレクションになったと推測され、蒐集の時期は1911年寄贈のものについては1880年代、1921年寄贈のものについては、1915年に購入したものと考えられる。 袈裟ではデンマン・ワルド・ロスからの寄贈品も、ビゲローからのそれに次いで重きをなしているが、ロスはわずか3点ではあるが能装束も寄贈している。アメリカ国内の他の美術館での日本美術品収集についてもロスと山中商会との深い関係がうかがわれ、袈裟もビゲロー同様、山中商会を介して購入した可能性が高い。袈裟の寄贈時期は1917年である。 袈裟は、仕立てによって五条袈裟、七条袈裟、九条袈裟などと呼び分けられ、場や儀式の格式に応じて使い分けられていた。ボストン美術館に所蔵されている袈裟では、七条袈裟が圧倒的に多く、五条袈裟はわずか5点を数えるのみである。七条袈裟は横は横幅150㎝以下のものが多い。また58点を数える七条袈裟には台形をなすものもあるが、11点と数は少ない。 一方、七条袈裟と組み合わせて着用する横被は36点と、58点の七条袈裟ついで多い。横被の法量は、 袈裟は前述の4名以外からも寄贈を受けているが、前述の傾向が共通して見られることは、これらがある用途を想定して収集されたことを推測させる。おそらく袈裟も横被もテーブルクロスとしての使用を考えて購入されているのではないか。それが長方形であるものを選び、また十分な大きさや長さのものを選ぶということになったと考えられる。 ボストン美術館所蔵の袈裟や横被の制作年代は、ほとんどが江戸時代、あるいは明治時代のもので、使用されている生地は、錦や繻珍、唐織、綴織といった多色の紋織物、あるいは金襴や銀襴といった金属糸で模様を表す紋織物がほとんどである。西洋文化の中では生地の格付けとしては紋織物が染物に大きく勝り、特に広義の“Brocade”に分類されるこれらの生地は、そのエキゾチックな模様でも珍重されたであろう。加えて日本における前述の社会事情のもとで、これらが安価に求められるとなれば、大いに収集意欲をそそられたものと想像できる。 最後に、これらの中からいくつか注目すべき作品群を紹介してこの報告を閉じることとしたい。 ボストン美術館所蔵の袈裟・横被には裏地に墨書銘を伴うものがあり、それらは主に所有者である寺院の名称や使用者した僧侶の名前を記すが、中には番「紅地花入亀甲繋模様錦横被」(宝暦13年)のように、制作あるいは奉納された年を記すものもある。また、本来横被は七条袈裟と共布で仕立てるが、そうしたものは少なく、29番「縹地石畳牡丹模様錦七条袈裟」と91番「縹地石畳牡丹模様錦横被」、30番「縹地石畳牡丹模様錦七条袈裟」と92番「縹地石畳牡丹模様錦横被」の二組が含まれているのみである。このほか、能装束の唐織に用いられている裂で仕立てられた横被も2点見られる。 ボストン美術館所蔵の袈裟類を総括すると、その内容は寄贈した人々がこれらを収集した時期が大きく関係していることがわかる。制作年代が江戸時代から明治時代に集中しているのは前述の理由によるが、海外流出せずに国内に残ったものの多くが打ち捨てられ、廃仏毀釈の動きが解消されたのちも、袈裟や横被がその量においても質においても、江戸時代のような華やかな展開を見せることがなかったことを考えれば、これらの作品は袈裟類の美術史的研究にとって、非常に貴重な遺品ということができる。8112番「紅地花卉模様繻珍七条袈裟」(享保19年)、90

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