同館石橋財団日本美術アシスタントキュレーター)に受け入美術財団事務局長)も加わり、出版や図版掲載に関わる124年9月16日から27日までの二週間にわたり、髙岸輝94番は近世から近代初頭の模本である。模本は収蔵の2年間にわたる熱心な探索に負うところが大きい。 7作例ある原本のうち、1番「吉備大臣入唐絵巻」型の絵巻)の重要作例である。 87作例ある近世から近代初頭にかけての模本は、が18世紀にさかのぼる。原本は南北朝時代に成立、 50番「三国志絵巻」は、狩野友信(1843〜1912)が髙岸 輝7番「うたたね草紙」は室町後期に流行した小絵(小濃彩で表紙・裏打ち・軸装された「本絵」と、裏打ちのない薄い紙に墨線主体で描かれた「まくり」に大別される。本書では、模本については『角川絵巻物総覧』(角川書店、1995年)に従って「経説」「縁起・霊験」「高僧伝」「物語・説話・合戦」「御伽草子」「歌仙・歌合」「戯画・風刺」「記録ほか」の八つに分類し、各カテゴリー内は底本のおおよその成立年代順に配列した。 模本のうち、転写に関わった人物が明らかな例をいくつか挙げておこう。狩野派では、山下家の狩野春笑宣信(1730〜97)による48番「後三年合戦絵巻」平安後期の源義家を主人公とするもので、江戸時代を通じて鳥取藩池田家に所蔵され、広く転写が行われた。奥絵師・鍛冶橋家の狩野探信守道(1785〜1835)による40番「平治物語絵巻(三条殿夜討巻)」とともに、武家好みの主題といえよう。奥絵師・浜町家の狩野融川寛信(1778〜1815)による31番「釈□堂縁起絵巻」は、木□町家所有の模本を写したもので、狩野元信が描いた原本(清凉寺蔵、1515年頃)は、近世の狩野派によって絵巻の規範と仰がれた。73番「鳥獣人物戯画」は、文久2年(1862)の奥書によれば、熊本藩細川家に仕えた肥後狩野家の狩野養長(1814〜75)が江戸・浜町の寓居で写したとある。奥絵師・木□町家の狩野晴川院養信(1796〜1846)の門人であると同時に、浜町家の当主は養信の子・狩野董川中信であったことから、二家いずれかの模本を実見して転写したのであろう。養長は絵巻の模本をしばしば制作したことが知られる。 ボストン美術館に所蔵される絵巻の調査は、2019と梅沢恵(神奈川県立金沢文庫主任学芸員)が担当し、同館のアン・ニシムラ・モース氏、竹崎宏基氏(当時・れの対応をいただいた。髙岸は全期間を通じて、梅沢は第二週に参加した。第二週には皆川倫子氏(鹿島事務的な折衝を行った。 今回の調査を通じて確認できた絵巻は、原本・模本あわせて94作例(総計188巻)である。このうち、作品番号1番〜7番は古代末期から中世の原本、8番〜庫内に散在しているため、悉皆的な調査は行われておらず、これだけの数量を把握できたのは、竹崎氏は、平安末期に後白河上皇(1127〜92)が制作させた絵巻群の一部として、蓮華王院宝蔵に収蔵されていた可能性がある。室町時代には若狭国に所在、近世には流転を繰り返し、江戸幕末には小浜藩酒井家の所蔵となった。大正12年(1923)の売り立てによって酒井伯爵家を離れ、昭和7年(1932)に当館の所蔵となっている。3番「平治物語絵巻」は、同主題の東京国立博物館本や静嘉堂文庫美術館本とともに鎌倉中期に□る作例で、大型の画面に展開する勇壮かつ凄惨な戦闘や、猛煙を上げて炎上する殿舎の描写は合戦絵巻の現存最古作として高い格調を示す。(2)「地獄草紙断簡」は、平安末期に成立した奈良国立博物館本「地獄草紙」とかつて一具であったもの。鎌倉前期の4番「過去現在因果経絵断簡」五幅が近年収蔵され、経説絵巻に厚みが加わった。5番「高野大師行状絵」は南北朝時代の高僧伝、6番「化物草紙」ボストン美術館の絵巻
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