塚(1808年、1828年、1846年)があり、これらには徳川□□□□□□□□□□□□□79)の門人でもあった。狩野家の菩提寺である池上(1775〜1828)、晴川院養信の木□町家三代にわたる筆83)であった。彼ら三名と岡倉天心(1862〜1913)は明絹本に精密な彩色で写した豪華版である。友信は中信の子で、木□町家の勝川院雅信(養信の子、1823〜本門寺には、養川院惟信(1753〜1808)、伊川院栄信家斉(1773〜1841)が『三国志』を愛読したため、「三国志画巻」十数巻が制作されたと刻まれる。友信による転写本は、将軍家周辺の壮大な絵巻制作企画の面影を伝えるとともに、豊麗な彩色によって、やまと絵復古へと傾斜していく幕末期狩野派の基準的な様式を示すきわめて貴重な作例といえる。 アーネスト・フランシスコ・フェノロサの周辺で模写を手掛けたのが、狩野友信と住吉広賢(1835〜の模写を行っている。フェノロサが特に高く評価した承久本「北野天神縁起絵巻」に関しては、友信筆とみられる模本(15番)、広賢が北野天満宮の社務所で臨模した模本(16番)がある。当館には広賢による模本群があり、17番「当麻曼荼羅縁起絵巻」、37番「伴大納言絵巻」、45番「蒙古襲来絵詞」、76番「絵師草紙」、86番「相撲絵巻」は、いずれもフェノロサの依頼によって転写されたものと推察される。これら広賢による作例は、原本に比べて明るくコントラストの強い彩色に特徴があり、登場人物の動勢を強調した場面が選択されており、絵巻の勇壮さを称揚したフェノロサの絵画観の反映とする見解がある。 もうひとつの重要な作品群が蜷川式胤(1835〜82)周辺の模本である。東寺の公人の家に生まれた蜷川は、好古家として故実や古物に通じ、幕末には社寺調査を行った。39番「能恵法師絵巻」は京都在住時の元治元年(1864)に、おそらく広隆寺を訪れて自ら転写したものである。明治2年(1869)6月、東京に移って明治新政府に出仕し、制度取調御用掛としてさまざまな制度の調査や立案に参画した。なかでも服制の考証は重要な任務であり、絵巻模本を収集し分析を進めたらしい。奥書によれば、同年9月から詞」を、翌明治3年(1870)に83番「舞楽散楽図」、67(1848〜98)は収集家・鑑定家として知られるが、フェ殿夜討巻)他」、42番「前九年合戦絵巻」、18番「春日(本朝画事)』や、明治17年(1884)に刊行された相倭画名巻競』において治13年(1880)に京都を訪れ、東福寺に滞在して絵画12月にかけて92番「犬追物図」、49番「太平記絵巻」、90番「文永十一年賀茂祭草紙」、44番「蒙古襲来絵番「建保職人歌合絵巻」、41番「平治物語絵巻(三条権現験記絵巻」を、いずれも東京で得たとある。朝廷や武家の故実・儀礼を調査するための行事絵や合戦絵巻が多い。特に重要な故実性を有する82番「年中行事絵巻」は、松平定信(1758〜1829)から桑名藩松平家に伝えられた模本で、町田久成(1838〜97)を経て、明治9年(1876)に入手したものである。また、明治2年12月の奥書をもつ94番「近世年中行事絵巻」は高嶋千載に描かせたとあるが、東博所蔵の蜷川関係資料のなかにも同人に転写させたものが複数含まれる。これら蜷川関係の模本もまた、フェノロサ経由で当館に入ったものかと推定される。 当館の模本群の主題を通覧すると、江戸幕末期の□□□住吉家が各時代の絵師別の作品名を列挙した『倭□□□錦撲番付形式の絵巻リスト『大高く評価されるような、著名な絵巻を網羅しようとする意識がうかがえる。後者を編纂した柏木貨一郎ノロサ、ウィリアム・スタージス・ビゲロー、蜷川式胤、岡倉天心らと密接な交流をもっていたことも注目してよい。 今回の調査を通じて見えてきたのは、江戸幕末から明治にかけての狩野派・住吉派によるやまと絵復古の潮流、好古家たちの活動と絵巻ブームというべき状況、そして、明治新政府による故実の調査やフェノロサ周辺における古画の再評価といった複数の文脈である。21世紀に入り、絵巻の研究は、古代中世の名品偏重から、近世の作例や各種模本の調査分析などより広い視野へと展開しつつある。当館の絵巻群は、古代中世から近世へのやまと絵の展開を示すとともに、近世から近代の転換期における古画の評価と日本美術史の形成を跡付けるものとして、今後さらなる検討が求められる。125
元のページ ../index.html#195