ボストン美術館 日本美術総合調査図録 図版篇
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□里□□なわち東園公、綺里季、夏黄公、甪 ボストン美術館が所蔵する日本絵画のうち、江戸時代狩野派の作品は質量ともきわめて充実した一ジャンルを形成している。明治23年(1890)日本から帰国すると、ボストン美術館東洋部主管となり、日本美術の収集につとめたアーネスト・フランシスコ・フェノロサが、狩野友信を中心とする狩野派の画家と親しく交流し、彼らから多くを学んだことと関係するものと思われる。 美術は社会力(social forces)の反映であり、したがって時代によって分類しなければならないというのが、フェノロサの基本的美術史観であった。美術は想像力の歴史であるべきだと確信していたフェノロサにとって、江戸時代の美術は著しく月並みに堕し、装飾過剰に陥っていたし、絶頂期というより、過去からの残存と新しい時代への緊張したバランスのうえに生まれた美術であった。しかし4つの流派だけは幅もあり、高いレベルに達していたと評価し、『東洋美術史綱』では近代貴族主義美術として後期狩野派―江戸時代狩野派を大きく取り上げている。ボストン美術館の江戸時代狩野派コレクションが充実しているのは、このようなフェノロサの江戸時代絵画史観を反映したものでもある。 江戸時代に入って狩野派を主導し、江戸狩野確立へと誘ったのは、狩野永納の『本朝画史』に狩野派の画風を一変させたとたたえられる狩野探幽であった。この探幽の筆になる29番「杏壇孔子・顔子・曽子図」が収蔵されている。杏壇に座して講じる孔子を中央に、顔回と曽参を左右に配したトリプティックで、『東洋美術史綱』に取り上げられて早くより探幽の代表作となってきた。狩野正信が宋時代の彫像を写した足利学校の孔子像を、探幽がさらに模写した作品で、フェノロサは明治15年、狩野探美からこれを譲り受けたと書いている。落款印章は見当たらないが、探幽の斎書き時代を象徴する力作である。 探幽の35番「海棠に尾長図」も優品としてよく知られてきた。基本的に本図は、中国画の三媚図という画題によっており、尾長(正しくは練鵲)は『本草綱目』や『和漢三才図会』にも載る禽鳥だが、日本で実際に見ることはむずかしく、探幽は中国画に依拠したものと思われる。一方、海棠は探幽筆「草花写生図巻」(東京国立博物館蔵)に写生図が残っている。探幽は粉本と写生を組み合わせて描いたわけだが、ここにすぐれた魅力の源泉を求めることができる。しかも『和漢三才図会』によれば、尾長はまさに雨が降らんとするとき群れで飛来するとあり、本図の水流はその心象を写したものであろう。のちに描かれたヴァリアントが東京国立博物館に収蔵されている。 探幽は写生とともに、古画の縮図に精力を傾けた。東京国立博物館や京都国立博物館をはじめとして、膨大な量の探幽縮図が遺されている。今であれば、デジタルカメラで撮影してパソコンに記憶させておくところだが、そのような文明の利器がない江戸時代、ひとしなみに画家は縮図を作った。目に触れた古画を縮写して貯めておくのだが、探幽縮図は探幽研究の資料としてのみならず、東洋絵画の研究資料として重視されている。探幽アーカイブとたたえてもよいであろう。26番「縮図帖」は雪舟筆「山水図」をはじめ27図が貼りこまれており、寛文年間の探幽縮図として充実した内容を誇っている。 鍛治橋狩野家を開いた探幽の弟に、木□町狩野家の尚信、中橋狩野家の安信がおり、ここに江戸狩野は磐石の基礎を築くことができたのである。尚信にの騒乱を避けて陝西の商山に逃れた4人の隠士、す眉皓白であったので、これを商山四皓という。伯夷は77番「商山四皓・夷叔採薇図屛風」がある。秦末先生が、みな鬚河野元昭198ボストン美術館の江戸時代狩野派

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