□□を討たんとするとき、臣が君を弑□□かったとき誤って履□□□仕えることを潔しとせず、首陽山に隠れ、薇館蔵)が代表作として知られるが、裏墨を効果的にと叔斉は兄弟にして殷の処士、周の武王が殷の紂王いさめたが無視された。周が天下を取ると、それにて生き延びたがついに餓死したと伝えられ、清廉潔白な人の象徴とされる。この2主題を六曲一双に配したのが本屛風で、水墨画を得意とした尚信の本領が発揮されている。画体は異なるが、83番「四季耕作図屛風」も尚信の秀作である。安信筆3番「黄石公・張良図」は圯上之会を描いた力作である。秦末の隠士・黄石公は、下邳国の圯橋(土橋)を通りかに前漢創始の功臣となる張良に拾わせ、その礼に太公望の兵書を与えたという故事である。 探幽に学んだ久隅守景に38番「山水図」がある。若干入墨があるかもしれないが、画致を損ねるほどではなく、探幽様式に絡めとられることなく個性を発揮した守景の優作である。「雪舟の画する所を慕いて偏に墨画を巧みにす」(古筆了仲『扶桑画人伝』)という評価が首肯されよう。 守景の娘・清原雪信の秀作に63番「范蠡載西施図」がある。箱書きには楊貴妃とあるが、美術館調査カードに范蠡と西施とあり、これに従うべきであろう。春秋時代、越王・勾踐の功臣・范蠡が、越の伝説的美人である西施を舟に乗せ、みずから棹差し五湖に浮かべ野辺へ誘うという故事、狩野一渓の『後素集』に「范蠡泛湖」として載る画題である。儒教道徳が支配的であった江戸時代にあって、雪信はともに探幽に学んでいた平野守清という青年と恋に落ち、母から叱られると駆け落ちしてしまう。そのような情熱が画面上直接現われているわけではないが、「女画の中興第一」とうたわれた雪信の繊細な筆致がよくうかがわれよう。 探幽以降、もっとも隆盛を誇るようになった狩野家は、尚信に始まる木□町狩野家であり、その優品が数多く含まれている。尚信の孫にあたる三代如川周信の作品としては、「寿老図」三幅対(東京国立博物使った107番「牡丹図」は勝るとも劣らぬ出来栄えを見せている。 木□町狩野家八代伊川院栄信の作品も充実しているのは悪であるとを川に落としたが、これをのち(大和文華館蔵)をはじめ、中国画学習の成果を取り入175番「唐獅子・牡丹図」三幅対が注目される。前175番「唐獅子・牡丹図」三幅対は伝統的画題ながるが、141番「楼閣山水図」三幅対と146番「松に真景図」に指を折りたい。前者は趙令穣筆「秋塘図」を採っれた細密楼閣山水図の優品である。後者は円窓より風景を望んだような構成が斬新である。しかも遠小近大構図(近像構図)に洋風画的視覚を感じさせるとともに、歌川広重の「名所江戸百景」などにずっと先行している。大きな松の背後に広がる風景が、特定はむずかしいものの、真景と思われる点でも興味深い。最近注目の高まる栄信の意欲作だが、さらに子の第九代晴川院養信と共同制作を行なった164番「和漢流書手鑑図巻」もこれに加えてしかるべきであろう。 その晴川院養信では、166番「仙境図」三幅対と者は訓練された精緻な描写に、狩野派の大家として幕末の画壇に君臨した養信の力量が容易に見てとれる傑作である。この作品は2012年、東京国立博物館ほかで開催された「ボストン美術館 日本美術の至宝」展に里帰りした。そのカタログ解説により、単なる仙境図ではなく、蕭史と弄玉を加えた三幅対であることが明らかにされた。蕭史と弄玉は春秋時代の仙人夫婦で、「吹蕭引鳳図」という長寿富貴・夫婦和合の吉祥画題となったが、これを養信が三幅対に仕立てた作品だったのである。『君台観左右帳記』にある夏明遠の様式に倣った作品とも見なされよう。ら、唐獅子図の現実的空間に近代絵画の足音を聞く思いがする。 養信を継いだ勝川院雅信には180番「張騫・山水図」三幅対があり、箱書から安政6年(1859)の制作時が知られる。とくに山水図には始祖正信や関東水墨画への原点回帰がうかがわれるようだ。張騫は前漢の人、武帝より命じられて大月氏に使いし、途中匈奴に捕えられたが脱走して使命を果たし、13年ぶりに帰還したという外交使節である。しかし絵画化される場合は、古木に乗って水を渡る姿に描かれる。張騫は黄河の源流を探った探検家としても知られ、これが七夕伝説と結びついて「張騫乗槎説話」になったという。伝元信や前嶋宗祐の作品を基にした雅信の基準作である。199
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