ボストン美術館 日本美術総合調査図録 図版篇
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 ここにボストン美術館所蔵の琳派作品として掲載するのは、36点の屛風絵、□絵、掛幅、蒔絵下絵などである。代表的な蒐集分野である狩野派絵画や浮世絵などに比較して、けっして多いとはいえない数であるが、酒井抱一の提唱した「尾(緒)形流」に基づくいわゆる琳派の流れに沿って、江戸初期の俵屋宗達の周辺から、喜多川相説、尾形光琳、尾形乾山、渡辺始興、酒井抱一、鈴木其一、池田孤村、明治初めの山本光一までを□えている。それぞれの作品をみると、19世紀末から20世紀にかけての伝承や認識を反映しており、現在においては雑□な印象を免れるものではない。とはいえ、そのなかに展覧会に陳列され、あるいは書籍類のカバーを飾るようなスター級の優品が二、三見出されることは注目すべきである。旧蔵者また寄贈者は、フェノロサ=ウェルドコレクション、ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション、チャールズ・ベイン・ホイットコレクション、スコット・フィッツ夫人などで、美術館草創期の代表的な日本美術コレクターの名前が列挙される。 筆者が調査したのは第一期調査の1990年代前半で、アン・ニシムラ・モース氏のご配慮のもとに単独で調査させていただいた。これら36点のうち、筆者が調査したもののなかから、美術史的な見地により言及すべき作品を選んでその意義について述べ、解題とさせていただくことにしたい。 まず、宗達周辺の作品からは、5番の「芥子図屛風」と6番の喜多川相説筆「柴垣に秋草図屛風」が挙げられる。喜多川相説は宗達から二世代ほど後の画家で、北陸地方に作品が伝存することから、この地域を本拠地として活動していたと考えられている。水墨を多用し、余白の多い瀟洒な草花絵を特色とする。この屛風もその作風による典型的なものだが、署名・印章の位置からして六曲一双屛風の左隻のみが伝来したと考えられる。を描き、金地を透かして見せる水墨と緑青による没骨描の葉の表現を特徴とする。「伊年」印を捺した宗達派の草花絵に多用される描法であり、署名・印章のないものの俵屋宗達の工房ないし弟子による宗達派の作例と見なされる。一方の隻は低く、もう一方の隻は跳び上がるように、高低差をつけて花の群れを配置する機知的な構成は、尾形光琳の「燕子図屛風」(根津美術館蔵)のプロトタイプをうかがわせ、その先駆的な作例として捉えることができる。屛風の裏に加賀藩第二代藩主前田利常(1594〜1658)の正室で徳川秀忠の二女の珠姫(1599〜1622、法名天徳院)の菩提寺、高野山天徳院からの寄贈であることを伝える墨書が貼られている。貼付の時期は不明なものの、その伝来はけっして単なる伝承として見過ごすことのできないものがある。 すなわち、前田利常と珠姫の四女の富姫は、叔母にあたる後水尾院中宮の東福門院和子の養女として八条宮智忠親王に嫁いでおり、東福門院は光琳の実家の高級呉服商、雁金屋の有力な注文主であった。このように、作品の生成に関わりのある人物の出自を調べていくと、この宗達派の「芥子図屛風」と光琳の「燕子図屛風」をつなぐ人的なネットワークが浮かび上がってくる。宗達派から光琳へという様式上におけるつながりは、けっして偶然ではなく根拠あるものだったのである。 次いで注目されるのは、8番の尾形光琳筆「松島図屛風」である。ボストン美術館を代表する琳派の屛風絵で、六曲屛風の一隻で伝わる。光琳を特徴づける華麗で力強い造形ながら、補筆が多いことでも惜しまれている。基本的な図様は俵屋宗達の「松島 5番の「芥子図屛風」は、金地に紅白の芥子ばかり玉蟲敏子280ボストン美術館の琳派

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