and Japanese Artの第十四章においてこの屛風を世図屛風」(フリーア美術館蔵)の右隻に由来しているが、ボストン美術館本は横への広がりよりも右側の島山をいっそう高く屹立させ、島山に挟まれた波の泡立ちをたぎるように激しく表している。アーネスト・フランシスコ・フェノロサは、Epochs of Chinese 界的な傑作として称賛し、1880年(=明治13年)に「さる大名家」から譲り受けたものであると語っている。明治11年に来日してから少し経った頃に取得したようだが、その家名は明らかにされていない。 光琳の署名印章を有する「松島図屛風」は、よく似た図様のものが豊富に見出され、一領域を形成している。宗達本と同様の六曲一双の例は、池田孤村編『光琳新□百図』掲載本、関東大震災で焼失したとおぼしい岩﨑家伝来本がある。いっぽう、酒井抱一編『光琳百図』下には、「富士図屛風」とひと組で伝来した「松島図屛風」が載っている。これは、当時の名高い茶道具蒐集家の冬木家の所蔵品であったらしい。近年、この『光琳百図』下の掲載図と酷似する「富士・松島図屛風」(個人蔵)が見出され、2015年にワシントンのアーサー・サックラー美術館の「宗達展」において初公開された。「松島図屛風」には、このように単独で構成され、別主題の屛風絵と組み合わされる例もあったのである。 したがってボストン美術館本は、一双屛風の片隻が残ったものであるとは必ずしも言えず、もともと完結性の高い一隻の屛風であった可能性もある。だとすれば、松の本数が少なく、よりシンプルで力強い主張のあるボストン美術館本は、後者の一群を拓く早期の例に位置づけられることになる。後世に広く光琳の「松島図」が好まれたのは、福徳をもたらす□莱山のイメージを内包するテーマであるとともに、その明快な造形が祝祭の場を盛り上げる飾りの道具に相応しいとされたからだろう。 光琳以後の世代の作品としては、渡辺始興の16番「農夫・童子図屛風」や17番「農夫に牛図」が注目される。18世紀前半の京都で活躍した始興は、光琳と円山応挙の間をつなぐ世代で、これらに描かれた農夫と牛の図様は始興の得意とするもので、大覚寺の杉戸や東京国立博物館の二曲屛風などの類作がある。現在は六曲一双の屛風仕立てになっている16番静嘉堂文庫美術館蔵)の図様を応用した抱一の印籠下絵は、引手跡がみられることからもとは□絵であったと判断される。向かって右隻の農夫の一行に対して、左隻には楚々とした秋草を背景にしてトンボを追う二童子が愛らしく描かれる。たらし込みが牛の背中や岩・土坡、樹木の幹など施され、始興が光琳とは一味違う宗達以来の軽妙で穏やかな表現の継承者であることが確かめられる。 さて、ボストン美術館の琳派蒐集品には、酒井抱一以降の作例にも目を引くものがいくつか散見される。なかでも19世紀後半の欧米におけるジャポニスムや装飾美術愛好の機運を反映して、原羊遊斎によいるのは貴重である。解説において分析したように、下絵に記された銘から酒井抱一によるものが八枚でもっとも多く、弟子の鈴木其一の銘のあるものも一枚含まれている。 旧蔵者はフェノロサの友人でボストンの富裕な医者であるウィリアム・スタージス・ビゲローである。ビゲローは明治15年から22年にかけて日本に滞在し、その間に精力的に日本美術を蒐集した。この原羊遊斎「印籠下絵」もこの時期に購入されたと推定される。現在、原羊遊斎の蒔絵下絵は、このボストン美術館の一本を含めて大和文華館や出光美術館の所蔵品など七種類が確認され、享和元年から天保14年にかけての年紀がある。原羊遊斎は、出仕する松江藩主の松平不昧や古河藩主の土井家などが所蔵する、蒔絵の道具や絵画などから学んで自らの制作の糧としている。この「印籠下絵」にも、抱一と親しい土井家所蔵の「十二か月花鳥図押絵貼屛風」(現、が含まれている。そこには月毎に制作し、一年をかけて土井家に納めたことなどの□記が書かれており、当時の蒔絵制作の実態を伝える資料としても重要なのである。 狩野派を古典として高く評価し、後年は□飾北斎ら浮世絵への理解を深めたフェノロサにとって、琳派に対する理解は本阿弥光悦と俵屋宗達を混同するなど時代の評価の限界に留まるものであった。アメリカにおける琳派コレクションは、次世代のチャールズ・ラング・フリア(1854〜1919)らに受け継がれ、発展していくのである。る30番「印籠下絵」が二十七枚の台紙貼で伝存して281
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