ボストン美術館 日本美術総合調査図録 図版篇
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 ボストン美術館日本絵画コレクションのうち、円山四条派もきわめて充実しているといってよいであろう。ボストン美術館日本絵画コレクションの中核をなすフェノロサ=ウェルド・コレクションに名を残すアーネスト・フランシスコ・フェノロサは、江戸時代美術に対して冷ややかな評価を下していた。著書『東洋美術史綱』において、次のように指摘しているのである。日本美術の各時代のなかでも、徳川時代は最も乱脈な時代で、画壇は小さな地方的勢力に分裂してしまい、別に国民的目標もなく、民族の努力を結集して、統一的な様式を実現するというような時代ではなかった。 しかしフェノロサは、その著書に「京都における近代庶民美術――四条派」と題する1章を抜かりなく設けている。それは四条派と呼ばれる画派の創始者である円山応挙を、とくに高く位置づけていたからである。現在ではこの画派を円山派あるいは円山四条派と呼ぶ場合が多いが、フェノロサは当時日本でもヨーロッパでも広く用いられていたという「四条派」をもって代表させている。「こういう時代に、矛盾を孕む渾沌のなかから、なんらかの秩序と様式を確立しようとする、そしてまたそれのできる京都出身の一大天才が、錯雑した種々の試みの激突するなかに、跳びこんできた。この人が円山応挙である」と、フェノロサは応挙をたたえている。 さらに呉春をはじめとして、応挙に続く画家たちにも賞賛の辞を捧げている。フェノロサは「応挙から三、四世代を経て今日にいたるまで、この派の伝統をうけつぐ人びとの系譜を□ると、そこには独創性に富む錚々たる人びとが名を列ねている。彼らは、その創始者ほどに有力ではなかったが、要所要所に、新鮮な感情を盛りこみ、それぞれの手法によってさまざまな美を表現している」と述べているのだ。ボストン美術館円山四条派コレクションの内容がすぐれているのは、全体として低調な江戸時代の美術にあって、フェノロサが高く評価していたことの反映とみて間違いないであろう。加えて見逃せないのは、フェノロサが京都の幸野楳嶺や大坂の西山芳園の子・完瑛と、大変親しかったという事実である。このような人的関係は、円山四条派の収集を進めるにあたり、与って力あったものと思われる。 当然のことながら、円山応挙のコレクションは豊かな内容を誇るが、1番「餝兜図」と2番「龍虎図」双幅に指を折りたい。前者は飾り台に懸けた『三国志演義』に出てきそうな中国の兜を描いた応挙の傑作である。日本の飾り兜を描いた応挙画はあるが、中国のものは他になく、特別な依頼によるものと思われる。岩のリアリティを求め続けた応挙らしく、飾り台の下に岩を配している点が興味深い。応挙42歳時の基準作でもある。後者は昭和58年(1983)開催されたボストン美術館日本絵画名品展に出陳された優品で、すでによく知られるところである。空想の動物である龍や、わが国では皮しか見ることができない虎を、あたかも生きているように描くことは、写生主義を唱えた応挙にとって大きな挑戦であったように思われる。龍あるいは虎を一双屛風に描いた傑作があり、また龍虎を西王母や王羲之と組み合わせた三幅対が知られているが、龍虎だけを双幅に仕立てたのがこの作品である。龍虎のリアリティは改めて指摘するまでもないが、龍が呼ぶ雨雲や、虎が招く風の表現も無視することはできない。画風展開上一大ピークを迎えた1776年の翌年に描かれた作品である。 応挙の弟子では、今や京都奇想派を代表する画家の一人と見なされることが多い長沢□雪に、興味深河野元昭380ボストン美術館の円山四条派

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