ろいだユーモアの気分が感じられ、その表現の軽みのせいか、この図が4、5点ほど日本で展示された折、さほど話題にはならなかった。この図の全幅が、普賢文殊像の両脇に並んだ時、印象は果たしてどう異なるだろうか。い作品である。以前、ボストン美術館の収蔵庫でこの絵を見たとき、そのあまりものウブさにとまどい、結局は若冲真筆と判定した。動植綵絵の制作以前に若冲が描いた作品は、現在かなりの数が知られているが、そのうちで「景和」落款を持つ一群の作品がどの年代に位置づけられるかは分からない。若冲が「景和」を号とする前に「居士」号を用いた可能性はあるかないか、この点を考えるとき、「居士藤汝鈞画」の稚拙な署名を持つこの作品の存在がクローズアップされる。私は以前、多分1973〜75年ころ、上野の文化財研究所で、当時東京で行われた美術倶楽部の売立目録に、土佐派の絵師の落款を持つ、これと全く同じ図柄の絵が載っていたのを記憶している。誰かが調査してくだされれば幸いだ。何れにせよ、私は現在なお、この「日出鳳凰図」を、現在知られる最も早い若冲の遺作と判断している。佐藤氏の執筆と思われるこの作品の所見にも「繊細な描写であり、若冲自身の初期作と認めてよかろう」と記してある。なお、45番「鸚鵡図」、48番「松に鸚鵡図」も動植綵絵制作以前の着色画の佳作である。 46番「日出鳳凰図」は、現在の辻にとり、悩まし3
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