ボストン美術館の近代日本美術コレクションの最大の特徴は、鑑画会の関係作品がまとまって収蔵されていることである。アーネスト・フランシスコ・フェノロサと狩野芳崖、橋本雅邦らを中心に、近代日本画の第一段階ともいうべき洋風の強い新日本画運動を試みた鑑画会(明治17年、1884)は、わずか4、5年で新設の東京美術学校(同22年開校)に発展吸収された。フェノロサやウィリアム・スタージス・ビゲローが貧窮する画家たちへの支援をかね、私費で作品買上げや賞金供与を行なったことで、彼らの所蔵品として太平洋を渡ったのである。修士論文で狩野芳崖を書いた私にとって、芳崖だけでなく日本画の近代化の起点となった作品群が、日本にほとんどないことは大きかった。1985年9月から10ヶ月間、文部省在外研究員として「在米近代日本美術の調査」を目的に、ボストン美術館に6ヶ月、フリア美術館に4ヶ月滞在させてもらったのは、その鑑画会関係作品の調査が第一目的だった(フリア美術館のコ美術館の日本美術コレクションの概要調査と見学を行なった。これが、以後の日本・欧米での日本美術観の比較や制度研究の第一歩となり、翻ってボストン美術館のコレクションの特質を再認識することにつながった(後述)。 美しいボストンでの半年間は、驚くほど美しく澄んだ記憶として残った。どこまでも続くイエローメイプルの黄葉、冬の波にゆれて風鈴のようにカラカラと鳴るチャールズ川の氷。美術館の東洋部には五浦釣人の小さな天心の木彫像があり、呉同さん、マニー・ヒックマンさん、栂尾祥瑞さん、修復の井口安弘さんがいた。アン・ニシムラ・モースさんは勤め始めてまだ2、3ヶ月目、秘書のクリス・ワースさ1987年、本巻の鹿島財団の調査で高階秀爾先生と1998年にうかがって実見できた。日本でも2012年番)を見せてもらった時には、上から30センチほどいながら)「見たい?」。私が「見たい」。これがこのんや修復のティア・ウィダポールさんも、みな同世代の新人で仲がよかった。アンさんは私と同い年で誕生日も近く、彼女の方が一週間ほど早かったので「私がお姉さん」ということになった。鑑画会の作品はマクリ状態のものも多く、井口さんの修復のアトリエで見せてもらい、休憩時もしばしば井口さんの所で色々な話を聞かせてもらった。職人気質で口数が少なく、コワ面だったが優しかった。収蔵庫でアンさんに小林永濯の掛軸「道真天拝山祈禱図」(33開いてドギツイ雲が現われると、彼女が「ウッ」(笑作品との初対面だった。その後、鑑画会の作品には、『日本美術院百年史』第1巻の調査で細野正信先生との東京国立博物館140周年特別展「ボストン美術館 日本美術の至宝」、2015年の東京藝術大学大学美術館「ボストン美術館×東京藝術大学 ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」で、再び実見する機会にめぐまれた。鑑画会作品にとっては、ほぼ130年ぶりの里帰りだったはずだ。1985年に初めてアンさんに会ってからすでに30数年になるが、この間に彼女がボストン美術館での作品調査協力や、日本での各種展覧会でコレクションの公開に尽くしてきた努力には、本当に頭が下がる。深い感謝とともに、ボストン美術館の歴史から見てもその功績は重いものだろう。というのはボストン美術館の日本美術コレクションが、海外所在の日本美術コレクションの中でもきわめて特殊、かつ秀逸な存在だからである。近代美術に限らない話になるが、要点をまとめてみよう。 まず第一に、その収集と整理にあたった人々が、佐藤道信レクションは、フェノロサが手許に残していたコレクションからの譲渡作品)。その間、後々の調査を考え、全米各地の46ボストン美術館の近代絵画美術の進化―過去(美術史)と未来(鑑画会)
元のページ ../index.html#546