ボストン美術館 日本美術総合調査図録 図版篇
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だ(久世夏奈子「岡倉覚三とボストン美術館」『美術史』159号、□□の当主、狩野永□□悳フェノロサや岡倉天心など、日本での日本美術史研究、文化財調査、博物館の中心にいた人々であり、まさにその当事者たちが収集から質的ブラッシュアップまでを行なったコレクションであることだ。こうした海外コレクションは他にない。 第二に、通常、コレクションはコレクターの趣味や関心領域に偏重するが、ボストン美術館の場合、「日本美術史」コレクションともいうべき体系性をもっていることである。これは偶然ではなく、フェノロサが「日本美術史」の体系化を、言説と作品の両面で、相互反照すべき存在として捉えていたことを示す。 第三に、収集にあたって厳しい“鑑定”を行なったことである。フェノロサが狩野宗家中橋家の最後信の号と免許を得たことは有名だが、他にも各流派末裔の大家に鑑定を依頼して作品を収集している。フェノロサのこの鑑定力が、日本での彼の発言力に“保証”と“信頼”を与えたのだった。 第四に史的体系性のため、フェノロサは大家の作品だけでなく、各流派の系統図に沿って作家の作品収集を行なったことである。それはスペンサーの社会進化論の熱烈な信奉者だったフェノロサが、美術の史的展開を“美術の進化”の歴史と捉え、進化論上のサンプル収集を行なおうとした行為だったように思える。日本でも爆発的ブームになったダーウィンの生物進化論を、日本に紹介したのはエドワード・シルベスター・モースだが、社会進化論を紹介したのがフェノロサだったらしいことは、日本ではほとんど忘れられている。生物進化論のモース、社会進化論のフェノロサ、そして富豪の医師ビゲローが収集したのが、ボストン美術館の日本美術コレクションだったのである。フェノロサの本業は哲学だが、この理系の人々との収集活動は、自然科学や社会科学の視点が基底にあったことを強く感じさせる。現在では日本画の“革新、改革、改良”の試みとされる鑑画会での新日本画運動も、フェノロサにとっては、“日本画の進化”への試みだったろうと思われる。 第五に、そうした視点で収集されたコレクションを、名品・優品のコレクションへと精錬する作業をに鑑定を学び、それで狩野永探理美術史学会、2005年)。後に行なったのが、天心だったことである。フェノロサや天心がボストン美術館で行なった作品の「目録作り」とは、単なる作品の登録作業ではなく、作者、制作年代、真贋判定などを伴う、いわば日本での古社寺宝物調査に近い作業だった。天心が勤務した頃には、日本の古美術保護政策による海外流出作品の減少、価格の高騰といった状況が生じており、美術館が新たに優品を購入する際には、資金調達のために売却された作品もあったらしい。鑑画会の作品にも、それで逆に日本に里帰りした作品もあった。現在の名品ぞろいのコレクションというイメージは、この精錬作業を通してより高められたといえる。そしてこの“名品”中心の展示は、ハンチントン・アヴェニューに移転した新館で、東西ウィングを構えたボストン美術館の新たな展示方針でもあったよう集「近代の欧米における日本美術観」を担当した時、とても印象的だったのは、趣味としての日本美術愛好だけでなく、日本では美術をどのように捉えているのかをよく理解した人材が、アメリカで連綿と続いていたことである。そしてその拠点が、ボストンとボストン美術館だった。そこに研究の最初期に滞在し調査できたことは、本当に幸運だった。アンさん、ボストン、ありがとう。最初の訪問・滞在から 2017年明治美術学会の『近代画説』(25号)で、特30数年をふり返って一番思うのは、この感謝である。47

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